【 2009年 第 4 回 】アヘン戦争と上海の発展 もう一つの日中関係 黒潮枢軸
大山 宜男(オオヤマ ノブオ)
中国最大の都市「上海」
学校の教科書とは少し違った角度から歴史を勉強してみると、世界やアジアの真実が見えてくると感じます。今売出し中の中国最大の都市上海は、アヘン戦争で清朝が開港させるまでは人口や産業の集積は殆どなくただの漁村だったようです。
それが開港と共に著しい発展を遂げ、アジアを代表する都市となり来年万国博を開催しようとしています。19世紀後半以降の短時間でなぜこんなに発展したのでしょうか?
私は香港で所謂市民権があり香港の専門家を目指していますが、上海はまったくの素人です。でも最近少し勉強したので上海のことも書いてみたいと思います。
地図を見てわかるように中国は国土がアメリカと同じくらい大きいのに海と接する部分があまりありません。大雑把に横に長い長方形と考えると東辺の下半分と南辺の右端あたりだけです。頭のなかでこの部分に青色のラッションを塗ってください。
しかし揚子江のような大河は船が上流まで航行することが出来、実質的な貨物運搬という観点からは重慶まで遡ることができます。先ほどの横長の長方形で言えば、上海から重慶までを細長い短冊型の入り江だと考えて頭の中のハサミで横に長い短冊を切り取ってください。
海に接しているのと同じ効果ですから、この部分も頭のなかで青色のラッションで塗ってください。黄河や珠江も短冊に該当しますが、長さと流域面積の広さ、そして可耕地のヒンターラント(後背地)=生産力で言えば圧倒的に揚子江です。
さて、この青色のラッションが交わる部分、ここが上海です。
当時沿岸の港・港に寄港しながら船による南北輸送がされました。だから東西の揚子江航路と南北の沿岸航路が上海で交わっていたのですが、対外開港により一気に全世界に向けて中華世界との物流の交点になりました。
また外国人居留地(租界)が出来、中国と世界の商売情報の交流が始まりここに情報ネットワークの中心が形成されて行ったと考えられます。
華商達は上海から南京、武漢、重慶へと延びる揚子江ラインだけでなく、ここから華北、華南方面、さらに中国全土に言わばコルレスネットワークを張りました。
清朝を圧迫した欧米列強は国内の産業資本・商業資本を背景に中国との貿易の拡大を望みました。しかし幾ら軍隊が強くても、商売をするためには現地のエージェントが必要です。欧米列強と清朝の間にあってギルド的な華商商社が発展、彼等は両者の間をとりもつことで肥大化して行きました。それだけでなく、台湾、日本、韓国に在住する華僑たちもこのネットワークに取り込まれて行きました。
その結果、長崎と釜山の貿易も、揚子江上流の重慶と中流の武漢の交易も、モノは2地点間を動くものの、商売自体をアレンジは上海がする、即ち、上海と長崎、上海と釜山、上海と重慶、上海と武漢などというふうに上海が仕切る形体となり、政治的・軍事的な歴史とは別に、商業や貿易金融の面では東シナ海を覆う上海華商のネットワークが東アジアを支配することになったのです。
この時、上海の華商に国境なぞなかったと言えます。武漢や重慶へ連絡するように、神戸や長崎、釜山の華商へ連絡し、しかも中国語で出来たわけです。
現地での通関こそありますが、それは現地の華商に任せておけばよいことで本質的な問題ではありません。円やウオンといった外貨との為替の問題もありますが、華商ネットワークの中の貸借関係での相殺や相殺尻だけの為替取組で解決されたと見られており、ここにあったのは「清朝の上海」ではなく、「東シナ海の上海」だったことは是非銘記して頂きたいところです。
明治維新以来、まだ日も浅い日本は富国強兵・殖産興業を掲げて国内産業の市場を東アジアの地域に求めたのが日本のアジア進出の黎明期でしたが、このとき日本の産業資本の前に立ちはだかったのは上海を中心とした東アジアの華商ネットワーク=主として商業・金融資本でした。
以降、語ると長くなるし浅薄な知識がばれるので歴史はこの辺にしますが、このように見てくると、華商の拠点としての上海はアヘン戦争の結果としての開港と、帝国主義列強の貿易エージェントとしての拠点という二つのポイントに立脚して繁栄を築いて来たことがわかります。
だから小さな漁村が19世紀後半以降急速に大都市化したのです。皮肉な言い方になりますが、侵略者イギリスあっての、海外あっての都市だったということになります。
オフショア取引は香港、オンショア取引は上海という役割分担
地図をいつも北を上にせずたまにはぐるぐる回して見てください。
東シナ海は朝鮮半島、九州、西南諸島、琉球、台湾に囲まれた地中海です。
西欧地中海の貿易商圏を握り富裕を極めたフェニキア人やカルタゴが軍事・政治的理由で滅びローマにとって替わられたように、日本の進出とその後に生まれた中華人民共和国による事実上の対西側鎖国で上海を中心としたネットワークは衰え、これに代わってそれまで南シナ海方面を押さえてきた香港の商圏が広がりました。
上に述べた「東シナ海の上海」に替わる「南シナ海と東シナ海の(華商ネットワークの中心としての)香港」です。日本と香港の繋がりは戦前よりはむしろ戦後冷戦下において拡大します。当然ですね、香港が中華人民共和国への窓口となったわけですから。
そして改革開放、特に1992年の南巡講話・浦東開発以来、上海は再び外に向かって昔の機能と位置を復活させつつあり、今やオフショア取引は香港、オンショア取引は上海という役割分担になりつつあります。
急に情緒的な話になりますが、香港派の日本人として少し香港を褒めておきたいと思います。香港は何処に居ても山と海が見えます。そして港町であることを体感します。神戸や横浜との共通点があります。
海の上と書く上海なのに、何処に居ても山も海も見えません。
マッタイラの土地に新旧の建物が林立しています。敢えていえば東京や大阪と同じで港がありながら港を体感できません。山と海、山海の珍味、これこそが日本のDNAではないか、私の意見なのですがそれ故に喧騒の中にも香港にはノスタルジーがあります。
それが上海は租界にしかありません。
閑話休題
フェニキア人の昔から富は貿易、すなわち海とりわけ海路と金融を支配した者が富を支配して来ました。
イスラム商人、インド商人に続いて、ベネチア、フィレンツェ、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスと出てきました。
東洋では上海、香港、そして日本でしょう。熱帯のインカ帝国のような例外を除き、山や内陸が富に縁遠いことは東西の歴史が物語っています。
生命の発生が海と陸がめぐり合うところであったのと奇遇ではありますが、富が満つるところもまた同じなのかもしれません。「オフショア」とは税務的な、「オフショアセンター」とは金融的な用語ですが、このオフショアということを考えると上に述べた上海ネットワークはアジアのオフショアだった。
上海は戦前のアジアのオフショアセンターだったと位置づけることもできるでしょう。
今は香港と上海が手分けしてオフショアとオンショアの中心になっています。
いよいよマイ・アドバイザーのテーマ、オカネに近づいて来ましたね。
来月は「オフショア的日中関係」と「オンショア的日中関係」に入って行きます。
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