池田龍也 の ちょっと気になるニュースから 【第12回】 続・日本からテレビが消える日~パナソニックの海外展開秘話~

マイアドバイザー® 池田龍也 (イケダ タツヤ)さん による月1回の連載コラムです。

【第12回】 池田龍也 の ちょっと気になるニュースから 続・日本からテレビが消える日~パナソニックの海外展開秘話~

池田龍也プロフィール

▼ パナソニックがテレビ事業から撤退か?

前回の続編です。2月初め、「パナソニックがテレビ事業見直し売却撤退含め検討」というニュースが流れてびっくりしたお話は前回ふれました。

▼ 日本のテレビ産業の歴史

いまから40年前のことです。1984、5年当時、日本のテレビ産業は年間1800万台のテレビを生産しました。ところが1985年のプラザ合意の後の急激な円高のため、国際競争力を一気に失うことになりました。この円高の打撃を回避するために、日本のメーカーは、日本からの輸出ではなく、工場を海外に移転して海外の工場から世界市場へ輸出する方向に大きく舵を切ることになります。

▼ 1993年 日本のテレビの輸出入が逆転!

テレビメーカーはぞくぞくと工場を海外に移転して、その結果、国内生産が減り、それとともに日本からの輸出もどんどん減っていきます。そして1993年、日本のテレビ産業は、日本市場で、輸出と輸入が逆転する結果になります。このグラフは日本のテレビ産業の構造転換の歴史を示しています。

この1993年の転換期に焦点を当てて、当時、筆者は松下電器産業(現パナソニック)のテレビ事業の最前線を取材することになりました。

取材の目的は、「どうする平成不況」という大型番組で松下の戦略を紹介するためでした。円高不況といわれていた時代の中で、松下の全面協力のもと、日本メーカーはどう競争を生き残ろうとしていたのかを検証しました。

▼ パナソニックの巨大工場に驚く

松下は、当時、東南アジアのマレーシアにテレビ生産の巨大な生産基地を立ち上げていました。マレーシア国内最大の工業団地といわれた「シャーアラム工業団地」というところに、日本にかわる輸出拠点として、巨大な工場を稼働させていたのです。

筆者の手元に当時の取材メモが残っています。大型番組の取材だったため克明に記録を残しました。松下のマル秘の資料や当時の取材メモをひもときながら松下(ここ以降パナソニックに統一)の戦略をご紹介していきたいと思います。

これにより、当時の日本の製造業の長期戦略や底力を確認することができると思います。そのテレビ産業が、もし見直しを迫られているなら、時代は、新たな転換点を迎えているのかもしれません。

▼ 1993年秋 私は何を見たか

1993年10月、取材に行ったのは東南アジアのマレーシア。いまから30年以上前のことです。バブル時代が終わったとはいえまだまだ日本が元気だった時代のことです。
この時期でもマレーシアは日本の夏のような汗がとまらないくらいの暑さでした。首都クアラルンプールから西へ40キロ、マレーシア国内最大の工業団地「シャーアラム工業団地」というところにパナソニックの巨大なテレビ工場が立ち上がっていました。

マレーシア側からすれば、ちょうど経済成長を加速していく時期にあたり、こうした海外からの投資を呼び込んで輸出主導型で経済を活性化、国の発展につなげようという戦略でした。東南アジアが「戦場から市場へ」といわれた時期でもありました。

「シャーアラム工業団地」がどこにあるかといいますと、マレー半島の南部、地図に示した通りです。

余談ですが、

当時のテレビは、ブラウン管という、下の図のような漏斗状の大きなガラスの管が組み込まれていて、この図でいうと上面の部分に画像を映し出す仕組みでした。

ですから、テレビパネルが、板のように薄くなった今と違って、テレビは いまよりもはるかに大きな、重い箱でした。そしてガラス工場は巨大な製造装置 が必要でしたから、装置産業といわれ、海外に気軽に展開するのは難しいといわれていました。

▼ 実は着々と進めていた世界戦略

さてそのパナソニックの海外戦略はプロジェクト名「新たな円高時代への対応」。トップメーカーのひとつとして時代をどうのりきるのか、主力部門だったテレビ事業にとって21世紀への布石となる、巨大かつ重要なプロジェクトとして位置づけられていました。
マル秘と書かれた資料を見ると、当時の時代背景やパナソニックが何を検討していたかがよく分かります。対策の検討はプラザ合意の後すぐに始まり、1987年には早くも具体策をまとめ動き始めていました。
世界市場の現状分析から始まりその対応策の検討、プラン策定、実行、と一気に進めていたことが分かります。

<NICS攻勢による市場価格の下落>
NICSとは当時経済成長著しかったニュー・インダストリアライズド・カントリーズ、その後NIES(ニュー・インダストリアライズド・エコノミーズ)に言い換えられましたが、韓国、台湾、香港、シンガポールの4つの地域のことを指します。
かりに円高がなかったとしても、この当時、この新興勢力との間で価格競争が激しくなっていたことがわかります。
・日本からの輸出が大幅に減少
・価格が下がり、収益力も低下の一途へ
ここに新たに円高が加わり大きな打撃

<具体策の検討>
A案 韓国メーカーからの供給
B案 部品や材料の調達を集中一本化してコストを下げる
C案 日本にかわる海外生産拠点の設立
結論はC案。拠点は東南アジアと決定となっています

そして1988年マレーシアのシャーアラム工業団地に46万平方メートルの土地を購入します。東南アジアでも有数の港、ポートケランに車で30分、空港へも15分という好立地を拠点に、いよいよプロジェクトが動き出します。
そして1989年4月には第一号機の出荷が始まりました。

<事業目論見書>
事業計画によると、初年度1989年度生産台数30万台、5年後には100万台へと一気に巨大輸出拠点にしていく計画でした。
さらに驚くべきことには想定している為替レートは初年度こそ1ドル120円でしたが、その後は1ドル100円で生産体制を設計してあり、1ドル100円でも利益が出て、ビジネスを続けられる体制をつくっていた点です。

当時、急激な円高で、円高不況をどう克服するのか、と誰もが悩み、対応に苦慮していた中で、パナソニックは、いち早く1ドル100円でも競争していける体制をめざし、すでにつくり上げていたことに、驚かされたのを覚えています。

▼ 1万点の部品をどう調達するか

当時のブラウン管テレビにはおよそ1万点の部品が組み込まれていました。この部品をどのように調達するのか、日本で調達していたような高品質の部品を、海外工場でどうそろえるのかが最大の課題でした。一つ一つの部品がきちんと作動しなければいい商品が出来上がらないからです。
安定した部品調達を実現するため、日本国内で取引している部品メーカーにも協力を仰ぐことになりました。つまり、多くの部品メーカーにもパナソニックとともに、工場の海外展開を求めることになります。

▼ 当時のメモより

シャーアラム工業団地の俯瞰図です。(当時の筆者の手書きで恐縮です)
★印がパナソニックのテレビ工場が進出したところです。▲印はパナソニックが進出する前から現地に進出していた協力メーカーでテレビの部品などを作っていました。そして●印はパナソニックのテレビ工場が進出するのに合わせて、あるいはその後進出した日本メーカーです。
▲・・・6社
●・・・25社
パナソニックの進出に合わせて協力する日本メーカーの海外展開も急増したことが分かります。
ここだけに限らず、パナソニックの取引先は、マレーシアの国内、隣国のシンガポール、さらに東南アジアの周辺国であわせて100社はあったということで、そういった体制が整えられたからこそ、ここに一大製造拠点が作れたともいえます。

日本の製造業は、当時から、大手メーカーとそれに連なる部品メーカーが系列といわれるピラミッド型の需給構造を作って、支えあう構造となっていて、海外展開はその系列のピラミッドがそのまま海外に一緒に展開する例が多く見られました。マレーシアへの進出でも、下の図が示す通り、そのピラミッドの構図がいきていました。

▼ 失われた30年は激闘の歴史だった!

このところずっと「失われた30年」というのがキーワードのようになっていますが、その内実はこの物語でもご紹介したように、当事者のみなさんは、何もせず、手をこまねいて時が過ぎるのを待っていたわけではありません。経済界、企業、そして多分政府も、どうにか時代を生き抜こうと、グローバルな競争を勝ち抜こうと、様々な手を打ち、新しい発想を次々と打ち出し、どうにか時代に食らいついていこうとしてきた歴史だったのではないか、と思います。

今回ご紹介したこの物語、当時日本がまだまだ勢いがあり、経済も底力があった時代の過去の物語として終わらせるのではなく、これからの時代を考えるひとつのきっかけになればと思います。こうした現場での格闘、激闘の歴史を振り返ってみると、パナソニックの誇りでもあり、歴史そのものでもあるこのテレビ事業を「見直し売却撤退含め検討」という決断がいかに大きなものかがわかると思います。

もしそういう流れになってパナソニックがその大きな決断を下すとしたら、それは40年前のプラザ合意の後の円高時代と同じような大きな歴史の転換点を、いままた迎えているのだと思わざるをえません。

 

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