生命保険業界の歴史を検証することで、将来への課題を探っていくコラムを連載していきたいと思います。
証券と保険をマスターすれば、FPとして一本立ちできると言われます。
なるほど、最も複雑で、顧客からのクレームの多い業界です。
一方で、無責任なマスコミ報道などにより間違ったイメージ・情報が定着した業過でもあります。
「へぇ~!!」と驚かれる一般には知られないエピソードを交えながら、正確な現状を確認する一助となれば幸いです。
第1回は、生命保険の誕生から第二次世界大戦前までの日本の生命保険業界を2回に分けて概観してみましょう。
まず、後編は「日本の生命保険(戦前)」についてです。
嶋田雅嗣⇒プロフィール
2.日本の生命保険史
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保険事業の創設
明治時代以前、日本には宗門団体、同業者、村落などを基盤に相互扶助の思想に基づく、頼母子講、無尽、職人組合などの隣保扶助制度などが存在していた。
明治の初期、福沢諭吉が著書「西洋旅案内」にて、英米の保険制度を紹介している。
其大趣意は一人の災難を大勢にて分ち僅の金を棄(す)て大難(たいなん)遁(まぬが)るる訳(わけ)にて・・・(以下略)
福沢諭吉は、「災難請負」を3種類、海上請負(海上保険)、火災請負(火災保険)、生涯請負(生命保険)に分類している。
当時は保険のことを請負と称していたことが分かる。
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損害保険会社
これを機に、
1879(明治12)年 | 東京海上保険会社 |
現 東京海上火災日動
三井財閥なども出資
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1887(明治20)年 | 東京火災 | 現 損害保険ジャパン |
1893(明治26)年 | 大阪保険 | 現 三井住友海上火災 |
などが、開業している。
当時は、保険事業に対する認識、理解度も低く、三井、三菱、住友などは社名に財閥名を入れることを認めていない。
一方で、その必要は認識しており、東京海上保険会社の設立には、三菱財閥のほか、三井財閥も出資している。
三井財閥が独自に損害保険会社を設立したのは、1918(大正7)年で、三井物産の一部門としてのスタートであった。
大正海上が三井海上と社名変更するのは、1991(平成3)年であり、設立から73年も経てからのことである。
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生命保険会社
一方、生命保険会社は、
1881(明治14)年 | 明治生命(現 明治安田生命) | 福澤諭吉門下の阿部泰蔵らにより設立 |
1888(明治21)年 | 帝国生命(現 朝日生命) | |
1889(明治22)年 | 日本生命 | 第百三十三国立銀行(現・滋賀銀行)の頭取をしていた弘世助三郎らが設立 |
1893(明治26)年 | 名古屋生命(現 太陽生命) | 1908年(明治41年)に本店を東京市京橋区に移し、太陽生命保険株式会社に商号変更 |
1894(明治27)年 | 共済五百名社*(安田生命 / 現 明治安田生命) | 安田善次郎により設立 |
1895(明治28)年 | 真宗生命(現大同生命) | 朝日生命と改称し、1902(明治35)年 護国・北海生命と合併) |
1902(明治35)年 | 第一生命 | 日本最初の相互会社。日本生命の社医、矢野恒太が設立 |
1904(明治37)年 | 千代田生命(現 ジブラルタ生命) | 福沢諭吉門下の門野幾之進が中心となり、日本初の英米相互組織として設立 |
1907(明治40)年 | 日之出生命(現住友生命) | 当時、優れた経営内容を「業界のダイヤモンド」と評された |
(*)共済五百名社
1880年(明治13年)、安田善次郎は500名の希望者を募り「共済五百名社」を設立。
この仕組みは「賦課式保険」と呼ばれ、加入者を限定し、支払った保険金の負担がそのまま加入者に均等に「賦課」されるものであった。
日本最初の生命保険制度とみなすこともある。
わかりやすい制度として開業したが、試行錯誤の後、1894年(明治27年)に近代的生命保険会社「共済生命保険合資会社」として改組し、のちの安田生命として発展することになる。
合併前の安田生命では、実質的な日本初の生命保険会社として共済五百名社を紹介していたが、一般的には、日本最初の生命保険会社は明治生命とされている。生命保険会社数は、1900(明治33)年に43社、1910(明治43)年に29社であった。
明治、帝国、日本の3社が業績を伸ばしたため、各地の資産家が生命保険会社を競って設立し、その数は数百社にも上った。その多くは統計的基礎を欠き、濫設による競争激化で募集の質低下を招き、社会問題になっている。日本、千代田、第一、明治、帝国の5社(保有契約高順)に生命保険契約は集約されていく。
1930(昭和5)年には、新契約高で54%、保有契約高で51%を占め、濫設された生命保険会社の多くは淘汰されていく。
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業界順位
生命保険業界といえば、ガリバー日本生命が常に業界をリードしてきたイメージがある。
しかし、1928(昭和3)年の大手5社の保有契約高は、かなり拮抗している。
日本生命 | 705,493千円 |
千代田生命 | 642,906千円 |
明治生命 | 638,009千円 |
第一生命 | 545,807千円 |
帝国生命 | 426,073千円 |
新契約では、大正末から昭和にかけて千代田生命がトップに君臨している。
同社の戦後の凋落ぶり、破綻の原因を探ることは日本生命保険史としても重要であろう。
年度 | 1位 | 2位 | 3位 | 4位 | 5位 |
1925(大正14)年 | 千代田 | 日本 | 明治 | 第一 | 帝国 |
1926(大正15)年 | 千代田 | 明治 | 第一 | 日本 | 帝国 |
1927(昭和 2)年 | 千代田 | 第一 | 明治 | 日本 | 帝国 |
1928(昭和 3)年 | 千代田 | 日本 | 第一 | 明治 | 帝国 |
1928(昭和3)年の新契約高は、1位 千代田生命 145,952千円、2位 日本生命 130,222千円で、2位から4位は120,000千円台で拮抗しており、5位の帝国生命が73,406千円で見劣りがする。
代理店数は、千代田生命の例では、1927(昭和2)年の 793店が、1931(昭和6)年に 1,170店となっている。
挙績から見て、他社もほぼ同程度の代理店を販売網として開拓していることが窺える。
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仏教系生命保険会社
キリスト教に対する危機感を幕末・維新期から醸成していた本願寺教団が,外国人の内地雑居を目前に控え,キリスト教対策の慈善事業費を調達することを目的として設立されたのが「真宗信徒生命」である。
欧米では,保険は神罰を減殺させるものとの偏見から宗教が生命保険を敵視していたのに対し、日本は現世利益を希求する国民性から,こうした偏見は見られなかった。
仏教教団が生命保険事業へ進出した理由は、キリスト教への対抗以外に,明治維新以後の国家神道政策によって寺院経済は多大な影響を受け,その経済的苦境を乗り切るため,教団が後援者として自らの財源を確保衣装とした面も大きい。
そのため利益配分上の特徴として、準備金積立よりも教団への寄付に重点が置かれていた。
募集活動でも保険数理を理解せず,宗門の権威を用いることがその前提にあったために事業構想が緻密にされていなかた。
宗教教理のために積極的な営利行為が行えなかったことも、これらを仏教系生保の失敗要因として挙げられる。
設立年 | 会社名 | 関連宗派 | 備考 |
1894(明治27)年 | 仏教生命保険株式会社 | 仏教各派 | 明治43年5月任意解散 |
有隣生命保険株式会社 | 仏教各派 | 明治44年高倉藤平へ経営支配権異動 | |
明教保険株式会社 | 神仏総合 | 明治39年11月任意解散 | |
1895(明治28)年 | 真宗信徒生命保険株式会社 | 浄土真宗本願寺 | 昭和9年野村財閥へ経営支配権異動 (東京生命の源流/現T&Dフィナンシャル生命) |
真宗生命保険株式会社 | 浄土真宗各派 | 明治32年6月,広岡久右衛門へ経営支配権異動(現 大同生命の源流) | |
1897(明治30)年 | 日宗生命保険株式会社 | 日蓮宗 | 明治42年解散 |
禅徒生命株式会社 | 臨済宗円覚寺派 | 明治38年1月任意解散 | |
1898(明治31)年 | 御嶽生存保険合資会社 | 御嶽峡 | 明治33年5月経営支配権移転。 |
1899(明治32)年 | 六条生命保険株式会社 | 浄土真宗大谷派 | 明治40年4月任意解散 |
1900(明治33)年 | 共慶生命保険株式会社 | 浄土真宗大谷派 | 昭和11年11月,帝国生命に契約を包括移転・解散(現 朝日生命の源流) |
その他、設立が計画された宗教系生命保険会社には、日本各宗生命、臨済生命、成田生命、内外相互保険、豊川生命などがある。
*出典:「仏教系生命保険会社の生成について -真宗信徒生命を中心に-」 深見泰孝 より抽出要約
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体制整備
1898(明治31)年に生命保険会社談話会(生命保険協会の前身)、1899(明治32)年にア日本クチュアリー会の設立と保険業法の制定がおこなわれ、近代化を図っていく。
保険契約および保険監督については、1890(明治23)年に公布され、1898(明治31)年に施行された商法に規程されていたが、1899(明治32)年の新商法から除かれ、保険業法が特別法として制定されている。
当初の保険業法は、免許主義、相互会社に関する規定、生損保の兼営禁止、普通保険約款の記載事項明示、検査について規定している。
1939(昭和14)年、保険業の免許規定を厳密に定め、濫設された保険会社を整理する目的で改正されている。
つまるところ、1996(平成8)年の大改正(第三分野の規定、生損保相互参入など)までは、日本の保険業の根幹をなす基本法として改正のないまま97年を経過したことは、法制史においても特筆すべき事項となっている。
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養老保険の拡充
保険種類は、当初は終身保険が大半を占めていたが、1897(明治30)年には、終身と養老が50%で拮抗し、大正末期には終身保険は10%程度まで減少している。
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徴兵保険
昭和初期から第二次世界大戦までは、養老保険の変形である「徴兵保険」が、退役軍人を募集人として、販売されており、1898(明治31)年の第一徴兵(旧東邦生命、現在のジブラルタ生命)、1911(明治44)年の日本徴兵保険(大和生命、現ジブラルタ生命)、1922(大正11)年の国華徴兵保険(第百生命、現マニュライフ生命)、1923(大正12)年の年富国徴兵(富国生命)の4社が設立されている。
日清戦争が終わった明治29年ごろ、「軍事思想の高まりの中で」、日本には徴兵制度があり、成人すれば、国民の義務として、それを果たさねばならないが、「入営するものとしない者との間に非常な不均衡があるので、安穏に家庭業務に従事している者から一定の金額を拠出させ、これを兵役に服する者に与えて、入営者のねぎらいとしたい」という趣旨で始まったという。
商品は極めてシンプルで、0歳から15歳までの男子が加入できた。保険料の払い込み方は、一時払い、毎年払い、半年毎払いがあった。
早い時期に払い込むほど有利で、男の子が生まれてすぐ一時払いで7円払い込んでおけば、20年後、その子が兵隊に行くときには100円の保険金がもらえる。
満15歳であれば、36円一時払いで、5年後には100円もらえることになっていた。
1943(昭和18)年4月、戦争の苛烈化に伴い、政府は、戦争による死亡や障害を対象とする保険制度として、「戦争死亡傷害保険法」を施行する。
日本国民であれば、老若男女の別なく、1人5,000円まで加入でき、全生命・損害保険会社が元受保険会社に指定され、取り扱うことになったが、その損益はすべて政府に帰属する仕組みであった。
終戦による廃止までの生命・損害保険会社合計の契約高は485億円余で、収支面は、保険料収入約1億6千万に対して、保険金支払いは約8億6千万、経費その他を合わせて、7億6千万円余の損失となった。
*出典:『東邦生命80年史』
保険の掛け金が払える人たちだけの保険で、そういう余裕のない家庭では、働き手が出征すると、たちまち生活に窮し、実は、そういう家庭の方が多かった。
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契約者
戦前は、地方の名士が代理店となり、年払の養老保険を中心に販売していた。
当時、月払制度を導入していたのは、郵政省が所管する簡易保険のみであった。
「無診査・月掛・集金」は、簡易生命保険法により、簡易保険が独占しており、民間生命保険は1946(昭和21)年以降に取扱が可能となっている。
それまでは、民間の生命保険商品は、資産家向けというイメージが強かった。
例えば、明治生命の1884(明治17)年7月から1年間の契約者を職業別に見ると、銀行会社員、商人、官吏(公務員)の3つの職業で約7割 を占めており、無職も約1割となっている。
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戦前の外資系生命保険会社
1900(明治33)年3月、保険監督法として保険業法が制定されているが、同年9月には、外国保険会社の監督のため、勅令第380号として「外国保険会社ニ関スル件」が制定されている(1945(昭和20)年11月25日廃止)。
同勅令は、1949(昭和24)年に「外国保険事業者に関する法律」が法律として制定され、1996年の保険業法改正により、保険業法に統合されるなど、外資系保険会社の営業に関しては古くから一応の法整備はおこなわれていた。
1901(明治34)年 | ヱクヰテブル(米国/エクイタブル)、サンライフ(カナダ)、マニュファクチュラーズ(カナダ/現マニュライフ) |
1902(明治35)年 | ニューヨーク(米国)、ミューチュアル(米国) |
1911(明治44)年 | チャイナミューチュアル(英国と中国の合弁/上海) |
が免許を取得し、いずれも支店方式で日本に進出している。
当時の米国3大生命保険会社(ミューチュアル、ヱクヰテブル、ニューヨーク)、カナダの2大生命保険会社が挙って日本に参入している。
しかし、外国生命保険会社の主力販売商品は内国社と同じ利益配当付養老保険であり、商品面での差別化が進まなかったこと、販売代理店が限られていたことなどもあり、新契約件数は全体の1~2%(最大販売件数は1930(昭和5年)の6,606件)に留まっている。
第二次世界大戦の勃発により、1941(昭和16)年12月、敵産管理法が制定され、敵国や敵国人などの財産について政府が管理人を選任することができるなどとされた。
1942(昭和17)年5月、4外国生命保険会社の保有契約12,135件は協栄生命に包括移転する。
これにより、保険金支払いなども含め、外国生命保険会社の営業活動はすべて停止された。
以後、1973(昭和48)年2月のアリコ・ジャパン(現メットライフ生命)進出までの約30年間、外国生命保険会社の日本での営業は途絶えることになる。
1986(昭和61)年、米国エクイタブル生命が変額保険で日本での営業に再参入した。
翌1987(昭和62)年、同社に「EQUITABLE LIFE」と書かれた生命保険証券のようなものが祖父の遺品から出てきたが、有効かとの問い合わせが入った。
戦前の生命保険史を知る者は誰もおらず、生命保険協会に問い合わせる騒ぎとなっている。
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