嶋田雅嗣 の 生命保険業界概観 第2回  戦後復興 後編 【2024年2月】

生命保険業界の歴史を検証することで、将来への課題を探っていくコラムを連載していきたいと思います。

証券と保険をマスターすれば、FPとして一本立ちできると言われます。
なるほど、最も複雑で、顧客からのクレームの多い業界です。

一方で、無責任なマスコミ報道などにより間違ったイメージ・情報が定着した業過でもあります。

「へぇ~!!」と驚かれる一般には知られないエピソードを交えながら、正確な現状を確認する一助となれば幸いです。

第2回は、戦後復興と第二会社設立の日本の生命保険業界を2回に分けて概観してみましょう。

後編は「生保レディが主役に(1970年代~)」です。

嶋田雅嗣⇒プロフィール

 

4.生保レディが主役に(1970年代~)

TVでは、1969(昭和44)年~1986(昭和61)年まで、デュークエイセスが歌う「モクセイのふるさと」が流れる中、中北千枝子さん演じる「日生のおばちゃん」が、訪問活動を行うCMが大量に流れ、“生保=女性の仕事”というイメージが完全定着することになる。この成功を見て、他社も女性を販売の主力とするようになっていく。

セールスレディのうち、短大新卒以上の高学歴女性による職域特化型組織が、1980年代に組織されるなど、セールスレディ制度は現在に至るまで、大手生保の主力販売チャネルとなっている。

セールスレディの職域募集を堅守するための構成員契約規制の死守、保険窓販への強固な反対など、大手生保vs中小・外資・損保系・ネット の根深い対立は、今も続いている。

会社名 制度名 実施年月
日本 リーブ 1980(昭和54)年4月
シャルム

ステラ

第一 ファヌーブ 1987(昭和62)年4月
明治 LILA

ELLM

VIOLA

1984(昭和59)年4月

 

安田 フローラ

ソフィア

1987(昭和59)年4月

1986(昭和61)年4月

住友 すみれい 1984(昭和59)年4月
朝日 ソレイユ 1987(昭和62)年4月
三井 プラネット 1987(昭和62)年4月
千代田 ウィルシィ 1985(昭和60)年4月

セールスレディの離職率は極めて高く、「ターンオーバー」が業界内外で問題となる。

1976(昭和51)年に「生命保険の募集体制に関する整備改善3か年計画(募体三計画)」がスタートする。この計画では、

・既存の副業的営業職員を専業外務員として育成する

・中核となる基幹外務員を育成する

・生命保険契約の継続率を改善する

ことを目的とし、各社に具体的な改善計画とその実行を義務つけた。この募体三計画は、1985(昭和60)年スタートの第4次まで継続された。

・1973(昭和48)年度 新規登録34万人、業務廃止40万人

・1978(昭和53)年度 新規登録15万人、業務廃止14万人(第1次計画中)

と大きな成果を挙げたとするが、

・1982(昭和57)年度 新規登録17万人、業務廃止16万人(第3次計画中)

であり、新規登録者数とほぼ同数の業務廃止となっていることから、実効性に乏しい、大手生保と中小生保の体力格差の拡大につながるなどの批判も多かった。

高学歴女性による職域特化型組織の開発も、この募体三計画が底流にあるとされる。

ちなみに、女性が営業の主力チャネルとなっているのは、海外では日本の生保経営を模範とした、韓国、台湾のみである。

 

  • 特別配当

生命保険の配当は、利差、死差、費差の3利源別配当である。

資産運用も、保険事業が相互扶助の精神で運営されることから、安全、公共、換金(流動)、収益の観点から行われている。株式運用も30%以内に制限され、受取配当をメインとして投資している。生命保険会社が大株主となると、配当受取が主目的であり、安定株主としてもてはやされた。

しかし、配当のようなインカムゲイン以外に、売却にともなうキャピタルゲインの蓄積も大きくなっていた。1971(昭和46)年に、10年超の長期契約に対して、キャピタルゲインを原資とする特別配当が実施されている。

1973(昭和48)年の第4次中東戦争勃発に端を発したオイルショックは、日本にも狂乱物価をもたらした。生命保険商品のインフレによる目減りが戦後の復興期に次いで大きな話題となり、国会でも取り上げられている。

対応として、例えば日本生命は、1974(昭和49)年度決算において、昭和20年代に加入した契約者に対して特別処置として、満期保険金の30%ないし120%の割増配当を実施している。

  • 物価指数定期(物価スライド定期)

オイルショックを契機に、インフレ対応商品として開発された商品に「物価指数定期保険」があり、大手生保を中心に複数社から販売された。物価の上昇によって保障額の実質的な価値の低下を防ぐため、全国消費者物価指数の上昇にスライドして保険料と保険金額が増加するが、販売実績は極めて少なく、数年後には全社が販売停止している。

  • 純保険料式責任準備金

第二次世界大戦による打撃、戦後のインフレによる事業費の高騰、月払制度の導入などにより、保険業法上は責任準備金の積立は純保険料方式が求められていたが、1962(昭和37)年、既に純保険料方式を達成していた富国生命を除く19社は、特例措置を受け、全期チルメル方式あるいは短期(5・10年)チルメル方式を採用していた。

1968(昭和43)年、当局からの指導により、純保険料方式に切替えることが要請され、数年後には全社が達成している。

*チルメル式とは、新設会社などにおいて新契約当初5年程度の間は付加保険料を厚く徴収し、会社運営経費を賄いやすくする方法であるが、保険金・給付金支払いの源泉である責任準備金の積み立て額が少なる。

 

  • 生命表の改定

終戦直後は、戦前に作成された「商工省日本経験生命表」が用いられていた。これは生命保険会社19社のデータに基づく経験表であり、保険料は男女同一料率であった。

1952(昭和27)年になり、当時の死亡率改善状況が反映された「第8回生命表」が厚生省(現厚生労働省)から発表され、保険料計算に用いられることになった。この生命表は国民全体を対象とする「国民生命表」である。

被保険者の実際死亡の状況を資料として作成される「経験生命表」は、国民生命表よりも実態を反映し契約者間の公平に資することから、早期の作成が求められていた。

1969(昭和44)年、民間生命保険会社のデータに基づく経験生命表である「第1回全会社生命表」が保険料計算に用いられることになった。

1976(昭和51)年の「第2回全会社生命表」で初めて男女別の生命表となったが、女性の年齢を男性より4歳若くみなすセットバック方式が採用されている。

1981(昭和56)年の「第3回全会社生命表」で、初めて男女別に予定死亡率が作成されている。

2018(平成30)年度からは、新たな生命表の採用が決定している。

ちなみに、EUでは、男女別料率の使用は、EUの男女均等待遇原則に反するのではないかとの訴えがあり、EU司法裁判所は男女別料率を禁止する判決を下した。このためEUでは、2012(平成24)年12月21日以降の新契約については、男女同一の料率を設定しなければならなくなった。

 

  • 外資系生保の進出

日本は1964(昭和39)年4月、OECD(経済協力開発機構)に加盟したことで、資本自由化の一環として保険事業への外資系企業の参入も検討課題となる。

戦後混乱期の脆弱な財務体質から容認されていたチルメル方式から純保険料方式への転換、商品開発力の強化、経理基準の統一などが課題となっていた時期でもある。生命保険業界は、自由化の早期到来を避けるため、事業の特殊性を訴えてその慎重な取扱を要望している。

その結果、外資系生保が新たに日本に進出する場合、「新商品、新販売手法など、従来にない手法でマーケット開拓する場合に限る」という方針が当局から打ち出された。

アリコ(American Life Insurance Company)は世界130数カ国で展開するAIG(American International Group)の中核生命保険会社として、1954(昭和29)年から外国保険事業者法に基づいて日本支店を開設し、在日米軍人家族を対象に、ドル建て営業で免許取得、営業を開始していたが、日本人向け、円建てでの営業開始を当局に要望した。

・1973(昭和48)年 アリコ・ジャパン(現メットライフ生命)

・1974(昭和49)年 AFLAC(American Family Life Assurance Company of Columbus/通称アメリカン・ファミリー生命,AFLAC 現アフラック生命)と、米国生命保険会社2社が相次いで日本支出をいずれも支店形態ではたしている。

アリコ・ジャパンは、無配当保険、医療保険を、同じAIG傘下の損害保険会社AIU(2018(平成30)年より富士火災と合併しAIG損保)を中心に大手損害保険会社の代理店をメインチャネルにしたほか、エージェントオフィスに配置された専業募集人、店頭販売、クレジットカードホルダー向けの通信販売など、マルチチャネル戦略を取っている。

AFLACは、がん保険を日本に持ち込んだことで有名である。がん死亡は、1953(昭和28)年に脳血管疾患に次ぐ2位にランキングし、1981(昭和56)年には1位となっている。かつては死の病と恐れられた結核がストレプトマイシンの登場で完治できるようになり、脳卒中(くも膜下出血、脳内出血、脳梗塞)も塩分の多い食事が原因とし食生活改善が進められ始めた時期である。“新たな死の病=がん”に対する恐怖心は広く国民の心に忍び込んできた。

代理店に銀行、新聞社などの別働体が登録したことも大きい。新聞に、がんに関する記事が載ると、その下にAFLACのがん保険の募集広告も載せられていた。

その後、「契約者の利益を損しない」という一般的で、極めて抽象的な条件に変わり、西武オールステート生命(現ジブラルタ生命)、ソニー・プルデンシャル生命(現ソニー生命,現プルデンシャル生命)、INA生命(現SOMPOひまわり生命)などが1980年代に相次いで進出している。

 

  • 外資系の無配当商品

国内生命保険会社が、有配当商品を販売していたのに対し、外資系は無配当商品で保険料の安さをアピールしている。

行政指導で、単年度黒字を達成するまでは、有配当商品を発売できないことになっており、それを逆手にとった戦略である。

しかし行政当局は、予定利率を引き上げる(保険料が安くなる)段階で、予定利率の低い旧契約の保険金上乗せあるいは、保険料割引を数回にわたって強いている。

結果、無配当商品と言いながら、実質的には配当のある商品となり、価格競争力を奪うことになるが、外資系は定期保険、医療保険を主力商品としており、経営戦略上の影響は限定的であった。

*本項における、無配当保険の保険金上乗せについては、詳細情報を収集中である。

*外資系生保については、改めて詳細を解説することとする。

  • 琉球生命と沖縄生命

第二次世界大戦後、小笠原諸島、奄美群島、沖縄などが米国の信託統治下に置かれている。奄美群島は1953(昭和28)年に鹿児島県に復帰、小笠原諸島は1968(昭和43)年に東京都に編入復帰したが、沖縄はさらに遅れ1972(昭和47)年に日本に復帰し沖縄県となっている。

琉球銀行が中央銀行となり、ドルが流通していた。車輛の通行が左側に変更されたのも1978(昭和53)年と、人口の多さにより、完全復帰作業には時間を要している。

沖縄では、1952(昭和27)年に琉球生命、1960(昭和35)年に沖縄生命が、営業区域を米国統治下の沖縄に限定された地域生命保険会社として設立されていた。

日本復帰に伴い、まず沖縄生命が1972(昭和47)年に協栄生命(現ジブラルタ生命)、琉球生命が1975(昭和50)年に日本生命に、それぞれ契約を包括移転している。

当初は、琉球生命と沖縄生命の合併、さらには内国社との合併も検討された。しかし、内国社との体力差から単独での存続は無理と判断した琉球生命と、単独での存続を目指した沖縄生命とでは戦略の相違に端を発し最後まで歩み寄ることはできず、別個の内国社に合併することになった。

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