【2016年 第1回 藤岡市助と東芝】風は西から・・・日本の産業を創った長州の偉人たち
上津原 章(ウエツハラ アキラ)⇒ プロフィール
こんにちは。山口県のファイナンシャルプランナー、上津原と申します。
2016年は、日本の産業を創った郷土の偉人たちを毎月取り上げたいと思います。
今回は、東芝の創業者の一人、藤岡市助氏を取り上げます。
今も岩国市民に親しまれている藤岡市助氏
錦帯橋で有名な岩国市には、「いちすけ号」という昔の電車を模した面白いバスが走っています。
他にも、作家宇野千代女史の作品や生い立ちがわかる「おはんバス」、漫画家弘兼憲史氏の作品にちなんだ「島耕作バス」などが走っています。
実は昔、岩国市には「岩国電気軌道」という中国地方初の市内電車が走っていました。
その会社をつくったのが藤岡市助氏です。
藤岡市助氏の生い立ち ~若くして一目置かれる技術者になる~
藤岡市助氏は、1857年に岩国藩士の長男として生まれました。
やがて、藩校を経て工部大学校(現在の東京大学工学部)に入学します。
日本で初めて電気(アーク灯)が灯ったときも学生として実験に参加しています。
首席で卒業した後は、工部大学校で教壇に立ちながら、アメリカから電球や電話機などの技術導入に取り組みます。
また、これからは電気の時代になることを見越して電灯会社の設立を政府や実業界に提案しています。
提案してできた会社が、東京電灯(現在の東京電力)です。彼は、後にその会社の技師長になります。
白熱舎の創業 ~技術者魂を持った経営者~
1890年には、国産電球を製造するため「白熱舎」を創業します。
この会社が後に東芝へと発展していくことになります。
その後、日本初のエレベーター、日本初の水力発電機、日本初の電気鉄道などにおいて技術指導者及び経営者として実力を発揮していきました。
そのため、藤岡市助氏は「日本のエジソン」という異名を持っています。
彼は、製造と同時に研究を大事にし、照明の研究を行うマツダ研究所を創設しています。
研究所が関東大震災で全壊した後も、株主であるGEの「工場を先に再開するべきだ」という意見を押し切って先に研究所を再開させます。
東芝が「Leading Innovation」を企業スローガンに掲げているのは、創業者の一人である藤岡市助の影響もあるように感じますがいかがでしょうか。
今日の言葉
「至善」 世の中のために最も善いことをする
11歳に彼が書いた言葉で、一生の指針としています。
藤岡市助氏は苦労人でもある
彼は発明家であると同時に、苦労人でもあります。
国産化した電球も、大量生産できるようになるまでに相当の年月をかけています。
製造のパートナーであった三吉正一氏が創業した会社が経営不振によって身売りする結果になったり、彼自身も社長を退任したりしています(その後社長に復帰)。
逆境に立っても継続することができたのは、自分が創った電球が広まって日本各地を照らすことで、世の中をよくしたいという強い意志があったからではないでしょうか。
東芝のもう一人の創業者との因縁
また、GEとの提携も彼の考えの表れといえるでしょう。
電球の国産化にあたっても、GEの創業者であるトーマス・エジソンに教えを請うています。
また、ただ教えを請うだけではなく、電球を長時間持たせるための竹フィラメントの研究に関わってGEの事業にも貢献しています。
だからこそ、業務提携をするときも対等の関係が築けたのでしょう。
実は、東芝のもう一つの前身である芝浦製作所もGEとの提携関係がありました。
なんだか因縁めいたものを感じるのは私だけでしょうか。
芝浦製作所の創業者は、からくり儀右衛門といわれる田中久重氏です。
彼も発明家として、からくり人形や万年時計といった世の中をあっといわせるような仕掛けを作っています。
田中久重氏も、まさに至善の心を持った方だったといえましょう。
立場にこだわらないから慕われる
ある時は技術者になり経営者を陰で支え、またある時は経営者となって有能な部下に仕事を任せる。
そのような地位や立場にこだわらない姿勢も、彼が今日まで多くの人たちに慕われる理由であるように感じます。
これからの世の中のため、最も善いことができる私たちでありたいですね。
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