日本女子大学と成瀬仁蔵 【2016年 第3回】

【2016年 第3回 日本女子大学と成瀬仁蔵】風は西から・・・日本の産業を創った長州の偉人たち

上津原 章(ウエツハラ アキラ)⇒ プロフィール

 

こんにちは。山口県のファイナンシャルプランナー、上津原と申します。
今回は日本女子大学の創立者、成瀬仁蔵について取り上げたいと思います。

 

 

成瀬仁蔵の生い立ち

成瀬仁蔵は、現在の山口市吉敷に生まれました。
実家は吉敷毛利家に仕える祐筆(公文書の作成などを行う武士)で、教育家としても知られていました。
明治時代になり、山口県の教員養成所に学び、やがて小学校の教員を歴任するようになります。

 

16歳までの間に、母、父、弟が相次いで亡くなり死と向き合うことになります。
同郷の先輩でもあったプロテスタントの宣教師澤山保羅(ぽーろ)を頼って大阪へ出て、浪花教会で洗礼を受けます。

 

やがて、彼が設立した梅花女学校の教師となり、関西を中心に各地で伝道活動も行います。
伝道先の新潟では女学校を設立します。

 

アメリカ留学、広岡浅子との出会い

1890年にアメリカへ留学します。神学校や大学で女子教育について研究し、4年後に帰国します。
梅花女学校の校長になりますが、その傍らで著書「女子教育」を出版します。
女性のための高等教育機関の設立を意図してのことです。

 

NHK連続ドラマ小説「あさが来た」にもあるように、支援者を募る中で当時から女性実業家として知られていた広岡浅子女史に出会います。
彼女の尽力もあり大隈重信など名士からの協力者が得られ、彼女の実家である三井家から目白の土地の寄進をうけることができました。

 

日本女子大学校(現:日本女子大学)の設立

1901年に日本女子大学校を設立して初代校長に就任しました。
精神教育と実験・実習を重視した教育を行い、1919年に亡くなるまで務めあげました。
女子を、「人として」「婦人として」「国民として」教育するという三綱領を亡くなる前月に遺し、今日の女子教育に大きな影響を与えています。

 

1909年には、日本初の女性のための通信制の高等教育も開始しています。
教育だけでなく、各界への問題提起も行っています。
1912年には渋沢栄一等の協力を得て、異なる思想を持った宗教家が協力し合うための帰一協会を発足しています。

 

今日の言葉

「わが目的はわが天職を終えるにあり。」

ここでいう「わが天職」とは、平たくいえば女子高等教育の普及と実践です。
女性が男性と同じように能力を発揮できる機会をつくり、個々人の生活を豊かにし、ひいては国を豊かにしていく。
といった成瀬仁蔵の思いが込められています。

 

私たちファイナンシャルプランナーの仕事の中心であるライフプランも、お客様に対して「我が人生の目的とは何か」を考えていただく場面が出てきます。よく、

「武士道とは死ぬことと見つけたり。」

といわれます。人生において、

「この仕事のためだったら死んでもいい。」

といえるものに出会えたら、本望としか言いようがありません。
今の私たちには、昔の方たち以上にあまたある選択肢があります。
選択肢があるゆえに迷うのですが、迷った時は自分が信じた道をまずは突き進むようにしたいですね。
突き進んだ後に本当の答えが見つかるように感じます。

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