【2016年 第6回 山尾庸三と東京大学工学部】風は西から・・・日本の産業を創った長州の偉人たち
上津原 章(ウエツハラ アキラ)⇒ プロフィール
こんにちは。山口県のファイナンシャルプランナー、上津原と申します。
今回は、工部大学校(現在の東京大学工学部)を創設した、山尾庸三(やまお ようぞう)氏を取り上げたいと思います。
彼の名前は知らなくても、映画「長州ファイブ」で松田龍平が演じた役どころといえば、もしかするとわかるかもしれません。
生い立ち
山尾庸三氏は、1837年(天保8年)、山尾忠次郎の三男として山口市秋穂二島に生まれました。
山尾家は長州藩士繁沢家の給領地を管理する庄屋の家系でした。
7歳からは小郡にある寺子屋まで片道10キロを歩いて通い勉強し、10歳にして小郡の郡役所の役人になりました。
やがて繁沢家に勤勉さを見込まれ、萩の城下で学ぶこととなります。
江戸へ出て、イギリスへ密留学する
20歳にして江戸へ旅立ち、桂小五郎(木戸孝允)に出会います。
江戸の錬成館で剣術を学びながら他の塾で兵学を学びます。
23歳には幕府が企画したロシア行航海へ参加します。
ロシア語を習得し商談するかたわら、船の修理工場を視察し初めて「工場」という概念を知ることとなります。
1863年(文久3年)、尊皇攘夷に向けて動いていた長州藩は、若き藩士の密留学を画策します。
その中のメンバーとして彼が選ばれることになります。
密留学へ出発したのは旧暦の5月12日。長州藩が関門海峡で外国船打ち払い(攘夷)を実行した日の2日後のことでした。
長州ファイブ
彼を含む5.名(後に「長州ファイブ」と呼ばれる)は4カ月かけてイギリスのロンドンへ到着し、英語を習得した後ロンドン大学で学ぶこととなります。
彼が選んだのは土木工学でした。学んでいく中で、造船について深く学びたいと思うようになります。
ロンドン滞在中に馬関戦争が起きました。長州藩は惨敗し関門海峡に設置した砲台が占拠される事態となります。
その時、伊藤俊輔(後の博文)と井上聞多(いのうえ ぶんた。後の馨)は帰国します。
彼も帰国を志願しましたが、井上聞多の説得により留学を続けました。
造船学を学び、そして帰国
1866年、後で留学した薩摩藩士から10両の支援を受け、グラスゴーへ旅立ちます。
昼は見習工として造船所で働き、夜は大学の夜間部で造船学を学びました。
長州藩より帰国命令があり、帰国したのは1868年(明治元年)11月。大政奉還の後でした。
まずは長州藩で働いていましたが、やがて新政府から呼び出されます。
幕府がつくった造船所を再稼働する仕事をしていましたが、日本でも工業の振興が必要であるという理由から「工部省」の設置を強く働きかけました。
工部大学校と人材
「工部省」へ移った後は、工業を興すための人材を育てる学校をつくる提案を行い、1873年(明治6年)10月に「工学寮」(現在の東京大学工学部)を開校し工学頭(こうがくのかみ:校長の意)になります。
彼がグラスゴーで共に学んだヘンリー・ダイヤ―を教頭に据え、基礎・専門・実地から成る6年間の教育制度をつくります。
「工学寮」は「工部大学校」に改称され、1879年(明治12年)に最初の卒業生を送り出しました。
卒業生には、東京駅を設計した辰野金吾氏や、東芝の創業者である藤岡市助氏などがおられます。
また、工業デザインの重要性にも着目し、1876年(明治9年)には「工部美術学校」(現在の東京藝術大学)を設立しています。
山尾庸三のその他の功績
彼が行ったことは、人材の育成にとどまりません。
新潟での油田の開発、造船所や鉱山などの官営工場の民営化、霞が関など中央官庁街の計画実行、盲学校の創設など、多岐にわたります。
今私たちが当たり前に見聞きしているものが100年以上前に原型が出来上がっていたのですね。
今回のことば「生きた器械」
「生きた器械」は彼を含む5人がイギリスに密留学する時に、井上聞多が残した言葉といわれています。
密留学は多額な費用が掛かります。しかも、そのお金は本来、尊皇攘夷のための武器弾薬を購入するためのものでした。
留学した後で長州藩に尽くす気持ちを、戦に臨んで死ぬくらいの決死の覚悟を込めた言葉ともいえます。
日本の工業の父といわれる彼は、人材育成や工業振興にあたってまさに「生きる器械」としての役割を全うしたといえるでしょう。
働くこととは、傍(周りの人)を楽にすることに通じます。
決死の覚悟で働いたからこそ、彼の功績が今日まで形となって残っているように感じます。
ライフプランニングでは個人の自己実現が大事にされますが、働いたことが世の中のためになって初めて自己実現したといえます。
もっと大きな視点で私たち一人一人の人生ついて考えられたらいいですね。
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