【2016年 第9回 笠井順八と小野田セメント】風は西から・・・日本の産業を創った長州の偉人たち
上津原 章(ウエツハラ アキラ)⇒ プロフィール
こんにちは。山口県のファイナンシャルプランナー、上津原と申します。
今回は、日本初の民間セメント製造会社、小野田セメント(現:太平洋セメント)を創業した笠井順八氏を取り上げたいと思います。
山陽小野田市には小野田セメントの創業地にちなんだセメント町があります。
近くにはセメントを製造していた竪窯(たてがま 通称:徳利窯)があり、セメントを運んだ木樽にちなんだお菓子を売っている店もあります。
小野田でセメントが造られなくなって30年余り経ちますが、小学校の社会科で習ったせいか、今でも私は「小野田=セメントの街」だと思っております。
生い立ち
1835年に、笠井順八氏は長州藩士として今の萩市に生まれます。
藩校明倫館で学び、江戸湾の警備の役を経て、安政5年(1858年)から役人として長州藩や山口県で財政や土木事業にかかわります。
高杉晋作氏が海外から新しい兵器を輸入する際、藩のお金を用立てる仕事もしています。
明治維新後は新政府の役人になる話もありますが、辞退します。
明治7年(1874年)、ものづくりにかかわりたいという理由で役人の仕事を退職します。
士族救済のため事業を探す
士族救済になる事業を探していたところ、役人時代の同僚が石造の倉庫を作ったというので視察に行きます。
その時石と石とをつなぐ材料として使われた粉がセメントでした。
セメントは当時、イギリスから高い価格で輸入していたといいます。
セメントの有用性に気づき、官営の深川セメント製造所へ何度も足を運び、セメントの製法を取得します。
彼はすぐにでもセメント製造会社をつくりたかったのですが、長州藩出身の井上馨氏から大理石の製品化を薦められます。
日本でも西洋建築が増え、大理石の需要が多くなっていることもあったためでした。
やがて、笹井順八氏は秋吉村(現在の美祢市秋吉)にて大理石の大鉱脈を見つけます。今日も、大理石は山口県の特産品になっております。
小野田セメントの創立・やがて海外へ
1881年に井上馨氏の計らいから、士族救済のための授産金として25,000円を年利4%の利息で借りて、さらに57,150円の資本金を得てセメント製造会社(後の小野田セメント)を創業します。
石炭、消石灰、粘土といったセメントの原料が小野田近辺で簡単にそろうのも、創業にあたっての大きな利点でした。
創業当初は年間70トンをつくっていましたが、年を経るごとに需要も増加し生産量も増え、民間の同業者も現れるようになりました。
1889年には、職工(従業員)として105人を雇う会社になっていたといいます。
※数字は山口県第三回統計書(山口県文書館所蔵)より
1890年には新工場をつくり、中国・シンガポール・オーストラリアなどにセメントを売り込みます。
その年には約37トンを海外に輸出しました。
先進的な福利厚生制度
職工の勤務形態として、1898年から段階的に8時間労働制が日本で初めて取り入られるようになりました。
他にも、3交代制、年金制度、退職金制度、健康保険制度が導入されていきます。
1922年に国として健康保険法ができますが、その時も小野田セメントに国の役員の方が視察に来られたといいます。
結び ~人や街をデザインするということ~
笠井順八氏の功績は、これにとどまりません。硫酸やソーダなどを製造する会社の創業にも用地交渉などでかかわります。
この会社は現在、日産化学工業になっています。
その時の名残で「硫酸町」という町名が残っています。
また、銀行や電力会社、鉄道会社等の創設にも関わっています。
1919年に84歳で亡くなられましたが、彼がいなければ、山陽小野田市は今のような街ではなかったでしょう。
1980年に当時の小野田市で名誉市民制度ができた時、名誉市民の第一号になられたのも納得です。
ファイナンシャルプランナーの仕事は、お客様のこれからを一緒にデザインする仕事です。
お客様のこれからは、目先の損得ではなく大局観によって決まると日々感じます。
笠井順八氏のような大きな志を持った職業人になるべくこれからも精進します。
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